[はじめに]


今回分かち合わないというテーマの中で広報として、私は「きらいなもの」をきいた。 「きらいなもの」が、最も本人のパーソナル性が出て、深ぼれるのではと思ったからである。きらいなものを聞き、そこからそれぞれの企画を立ち上げて、記事にすることで「アーティストの紹介」を試みる。 今回は第一回、平岡真生の紹介である。

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-目次-
1.《カラオケという他者とのかかわりを最大に味わうテーマ》
2.《カラオケのどこが嫌いかを語り合う》
3.《実践-カラオケの楽曲を歌わずに、鑑賞する-》
4.《実践-俺たちの羞恥心-》
5.《実践-歌う-》
6.《まとめ》
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1.《カラオケという他者とのかかわりを最大に味わうテーマ》


平岡さんのきらいなものは、「カラオケ」である。
実は、かくいう私もカラオケがきらいだった。
かつてその件で意気投合して、会うたびにカラオケについて話していた時期がある。
まあ言わずもがなでもあるが、カラオケという環境や、マイクを持つこと、声に出して歌を歌うことについての嫌悪感を共有したのであった。。。

「各々が回れ」に出展している作品「ここを出る、地面から離れる、できるだけ遠くに行く」は、幼少期の男の子との泥団子の思い出が制作の起点にある。
平岡さんは、個人的な経験の中にある境界線や他者との関わりをテーマに作品を制作している。カラオケというのもまた、人生において一般的なテーマでありながら他者とかかわることについての大きなテーマ性がある。(「そうか?」と思う方がいるかもしれないがそれはあなたが”カラオケネイティブ”すぎるのだ。カラオケに対して抵抗感のある人間にとって、カラオケとの関わり方の悩みは人生における重要なテーマである。)
「きらいなもの」というお題にカラオケが登場すること自体が、平岡さんらしいともいえるかもしれない。

さて、今回記事の作成にあたって、このような企画を立ち上げた。
「カラオケがきらいな部分について話し合い、分かち合わないことを目指す」
カラオケの嫌いな部分について意気投合はしていたものの、今回分かち合わないというテーマがベースにある上で、分かち合わないという姿勢をとってみたいとおもった。
私と比較をすることで、より平岡真生という人物を深ぼれるかもしれない。

2.《カラオケのどこが嫌いかを語り合う》


さて、私たちは、2025年8月4日の深夜、大阪の天王寺にあるジャンカラにいた。


当日は展示のリサーチで展示メンバー全員でデラハジリに訪れていた。
都合的に、今が「カラオケ企画チャンス」なのでは?となり、急遽決行した。
お互いにノリがいいのと、深夜のテンションであったから、全力でこの企画に挑もうとしていた。
カラオケの予約にあたって、ジャンカラのサイトを平岡さんがみると、コンセプトルームの紹介があった。ミラーボールがまわりつづける「ザ・カラオケ」な部屋が出てきて、この企画をやるなら絶対ここだ、と話した。最初はその部屋に入れなくて、断念も考えたが、諦めずにこだわったのは平岡さんだった。そういうところ、めっちゃアーティストだなと思う。

30分くらい外で待ったり、いったん別の部屋に入りして待っていたら、1時間くらいでコンセプトルームが空き、なんとか入ることができた。
うわー、最低の部屋。ただ企画としては最高である。さすが平岡さん。

そして、お互いにカラオケについてきらいな部分、思っていることについてすり合わせた。 嫌いになった経緯、他人の歌を歌うことについて、人前で歌いたくないこと、人前に出ること、幼少の頃との境目はどこか、目立ちたいという潜在意識、……etc。途中でカラオケに強制的に連れていくことはアルハラとかに近いのだと提言したりもしている。
これについてはしっかりと長い動画があるので、より深く知りたい方はご覧いただきたい。非常に面白い討論なのでみてほしい。


私と比較した結果、異なることがわかった。
意外と歌いたいかも知れないこと。
親の前では歌えること。
知らないところだったら歌えること。

などなど。
平岡さんは潜在的には案外前に出られるタイプなのかもしれない。全然分かち合えない部分あったけど、理解できた。もしかしたら一緒のタイプかもしれなくて、でも完全に一緒ではなくて、自分が崩壊しかけそうになった。平岡さんのパーソナリティを掘っているはずのに、自分のパーソナリティがわからなくなって揺さぶられた。


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3.《実践-カラオケの楽曲を歌わずに、鑑賞する-》


しかし今まで私も他者に対して、ここまで〈カラオケのきらいな部分〉について共有できたことはなくて、うれしかった。
平岡さんとはここまで人間に対しての偏見や感覚の共有をしていたので、カラオケという空間にいても安心感があった。
なにより、カラオケにいても「歌えよ」とか言ってこないのである。その運動部的なノリが存在しない。なんという素晴らしい環境だろう。

一通り対話を重ねたあと、休憩がてら、何となくカラオケの例の機械(曲を入れるモニター)で曲を入れて流してみた。

下浦


なんと、これが結構良い。これ、口パクとかならいけるかもみたいなことを話した。もしかすると歌うということを目指してもいいかもしれない。という話になってきた。

そして、まずはカラオケで楽曲を入れるということを一緒にしてみた。
実践編である。

もちろん、当初は歌うという想定は全くしていない。当初、このカラオケという場所を選んだのは、カラオケへの憎悪感情を育むためでしかなかったはずだ。 しかし、結局我々はコンプレックスに感じているのだろうか。楽しさは全ての人間に対等に分けられるべきだ。この機会に、少しでも乗り越えられる部分があれば、という気持ちになってきた。
お互いに知っている、カラオケ向きな曲を流していく。
カラオケの基本的な楽しみ方を「鑑賞する」というスタンスで理解していく。
タンバリンを持って、リズムに乗る。
なるほど、楽しいかもしれない。
2人とも歌わずに、タンバリンだけを振り続ける。一曲聞いて「うーん、なるほど」と言い、感想を話し、次の曲をかける。「イケナイ太陽」、「初代プリキュア」「可愛いだけじゃダメですか」「チャンカパーナ」……。

下浦

我々は世代が同じなので、懐かしむ。まいんちゃんで盛り上がったりした。懐かし〜〜。最近の流行りソングとかをかける。
「イケナイ太陽」では、サビ前のところで毎回「アァ・アァ・アァ・アァ・アッ!」のところだけ歌声が入ってめちゃくちゃ笑う。ここはやっぱ歌声入るんだ。(わからない人は改めて「イケナイ太陽」を聴いて欲しい)

カラオケで歌いまくる人からすると異様な光景かもしれない。けれど、これを40分ほど楽しんだ。本当に無言でタンバリンを鳴らしているだけなのだが、心の中はちゃんと盛り上がった。

たまに歌が入ってくる楽曲なんかもあって、それは最高に盛り上がった。全部歌詞ありでいい、という結論に至った。

平岡さんは、「これ、アートと一緒ですね。カラオケは空間インスタレーションですね」みたいなことを言っていた。ここでもアートのことかんがえてて笑う。インスタレーション論になってきておもしろい。

4.《実践-俺たちの羞恥心-》


そうやってカラオケで入れるような懐かしソングを次々と流していったのだが、
途中で、胸にきたタイミングがあった。
なんとなく、私たちが小学生くらいの時に流行っていた「羞恥心」をかけたのだ。

歌声のない「羞恥心」のメロディは、いつもに増して物悲しい。
歌詞が画面に映る。

「ドンマイドンマイドンマイドンマイ 泣かないで」
「生まれたことを喜劇だと笑い飛ばせば笑顔がよみがえる」
「うまく生きてゆけないかも 笑いたければ笑うがいい」
「人生  人生 人生 夢で生きてる」


…歌詞が刺さりまくる。

「これは、私たち…いや俺たちの曲だ」と話した。
平岡さんと僕の曲だ。俺たちは、羞恥心をまだ捨てきれていなかったんだ。
乗り越えなきゃと思った。そういう勇気づけがあった。

さらに次に流した曲もすごかった。
「がっかりして泣いたりして どうしたんだい」
「夢はデカくなけりゃ つまらないだろう」
「そうさ100%勇気 もう頑張るしかないさ」

そう、勇気100%である。もう泣きそうになっていた。
ここでどこか僕らの中に、「歌う」という目標がなんとなく生まれた気がする。
(この時点で深夜5時だった。)

下浦

下浦


5.《実践-歌う-》


平岡さんが「もしかしたら歌えるかもしれない」と言った。
めちゃくちゃ積極的である。私よりも積極的である。
まずは、1人の空間で歌ってみないかという話をした。私はトイレに行ってこの部屋を出るので、一旦1人で歌ってみてくださいと伝えた。
曲はAKB48「ヘビーローテーション」とのこと。


少し待つ。


10分ほど経って、平岡さんからメッセージが来た。
「歌えました」

おおおおおおお!!!


今度は同様に、僕が1人の空間になって、「ヘビーローテーション」を歌ってみる。



しばらくして森田、平岡さんにメッセージを送る。
「歌えました」




まず大きな壁を乗り越えた。これはすごいことだ。
次は、「他者と同じ空間の中でうたう」という課題である。

歌声が入っていればいけるという理論ならば、これは一緒に歌うならいけるのでは?
デュエットなら歌える??
ということでおそるおそる、もう一度「ヘビーローテーション」を入れてみる。

……歌えた。まじか。
そこからまあまあ、色んな曲を歌った。先ほど歌わずに眺めていた楽曲をなぞった。どの曲もテンションが高い曲であればそれなりにいけた。しばらくデュエットで歌った。歌えている。歌えている。歌えている。

6.《まとめ》


かけがいのない時間だったと思う。
カラオケを嫌いな二人が一緒に行って、カラオケについて最大限に向き合うという時間。

読んでいたたければわかるように、普段は平岡さんは静かなイメージだが、こういう時は案外ノリがいい。
歌う提案をしたりしたのは平岡さんだった。

たぶん一つのものごとについて向き合い考える時間は長いタイプだと思う。その場で考えるというよりも、ずっとそのことについて丁寧に扱いたいタイプなのではないか。ちょうど私も同じようなタイプなので、とても対話しやすかった。平岡さんとじゃないと、カラオケは歌えなかったと思う。


一旦歌をデュエットで歌い終えた私たちはしばらく仮眠をした。朝9時に出る予定で。
しかし、起きたのは9時ギリギリ。流石に間に合わなくて、急いで10時に延長した。
時間ができたカラオケルームの寝起き。
平岡さんは、「一発うたっときますか」と言った。
僕も、やや驚きつつも、相談してあいみょんの「マリーゴールド」をうたった。
テンションが高い曲じゃないと歌えない、と言っていたが、それは寝起きというシチュエーションによって、更新された。朝の寝不足のままの寝起きのわたしたちにとってはローテンションなほうがよかった。
しっとりソングだって、もう我々は歌える…。


なぜなら、とことん話した。ひたすら対話を重ねた。わかる、わからない、そういう部分をお互いに理解した。そのおかげで私たちは唯一無二の「カラオケに行く」という関係になった。

そんなノリに付き合ってくれる平岡さんは、真面目なんだと思う。
一つのものごとに向き合うという姿勢がないと人は「冷笑」に展開するが、その一切の濁りなく素直に向き合い続けたからだ。だからこそここまで来れた気がする。

この展示の企画の正解をこっそりと僕たちは出してしまったかもしれない、と話した。分かり合えなさすぎる部分をお互いを理解しながらわかり合っていく特殊な空間を私たちは生み出したのだ。共感から始まっているのでハードルは低いかもしれないが、これはある種の正解かもしれない。これが「すべての月を分かち合わないという楽園」かもしれない。


平岡さんと、あさ10時にカラオケボックスを出る。
駅で別れ際に「またカラオケいこう」といった。人生で初めて口にした言葉だった。


「じゃあね。またカラオケで。」



平岡さんにとって、本展示出展作品に関係する泥団子のエピソードは何度も反芻しているのだろうか。
平岡と同世代である私は、他者とのかかわりが世界とのかかわりと同等であるという感覚がある。平岡もまたそうなのだろうか。子供のころの公園の砂場は、世界そのものだ。その事実について、どう向き合うか。そこについてどういう世界だったか向き合う平岡の丁寧さは、本物だろう。

下浦



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